すっかり遅くなってしまった。
日はとっくに沈み、外は真夜中とたいして変わらないほどの暗さだ。
週末明けの月曜日。その日は、生徒会の用事がいやに長引いて結局かなめと宗介は最後まで残る羽目になったのだった。
「あー。疲れた…」
「うむ。疲れた」
「あんたが言うと変な感じね。…ホントに大丈夫?顔色悪くない?」
「さっき君が首を締めたからだ」
「……」
なんとなくばつの悪い気持ちで、かなめは人気のない廊下を早足で歩いた。
「千鳥。なぜ急ぐ」
「お、遅くなっちゃったからよ。早く家に帰りたいの」
「そうか」
暗いのは廊下も同じだった。電気が点いていない。多分、もうこの学校に残る生徒は自分たちくらいのものなのだろう。
なんともこの雰囲気が気味悪く、不安な気分にさせられる…などと自分が言ったら、
宗介に馬鹿にされるような気がして彼女は口をつぐんだのだった。もっとも、本人にそのつもりはないのだが。
「さむっ・・・」
玄関の引き戸を開けると、真冬の寒風が彼女の顔を撫でつける。
ぶるっとひとつ身震いしてから、かなめはなんとはなしに空を仰ぎ見た。
眼前の白い霧の向こうに、無数に瞬く銀色の星々。
見惚れたかなめは思わずため息を漏らす。霧は一層濃くなった。
「はぁ・・・キレイ」
「どうした。早く帰るのではないのか」
「上みてよ、上。なんとか思わないの?」
「……星だな」
「はぁ」
先とは別の意味でため息が出た。
風流やらなにやら、そういう魅力をコイツに理解させようとするのはゴリラに因数分解させるよりも難業かもしれない、と彼女は思った。
「寒い日って空が澄むとか言うじゃない。こんなにキレイな夜空見たの、久しぶりかも」
「なにやら嬉しそうだな」
「嬉しいのよ」
屈託の無い笑顔を浮かべて、彼女は宗介の手を引いた。
「じゃ、帰ろ」
宗介は一瞬きょとんとして、気まずそうに顔を伏せた。
今まさに彼女がその『難業』を果たしたことなど、自身には知る由もない。
実際、静かなのは空だけである。
ここの通り一帯は、この時間になると交通量が微妙に増えるので、トラックや自動車が耳元で頻繁に風を切っていく。
ひとたび地上に目を下ろせば、人こそ少ないものの自動車のヘッドライトや商店街の電光板などがそこかしこで鬩ぎ合っていて、眩しく感じられるほどなのだった。
隣で彼女の声が聞こえる。
何かを一生懸命に語っているのはわかるが、今日は何故だか頭の中に入ってこないらしい。宗介は適当に相槌を打った。
知らず知らずのうちに歩幅が緩む。どうにも、うまく焦点が合わない。
ただ、彼の目にはぼんやりとネオンのライトが交差している光景が映るだけだった。不思議な感覚だ。
……そうだ、いつかもこんな感覚を感じたことがある。あれは初めて散髪してもらった時だったか。
視界が微妙にぼやけていて、すぐ近くから彼女の声が聞こえて。
そして、この平和な状況に自分は依存している。
し過ぎていた故かどうか、その後強烈なしっぺ返しをくらったことも覚えている。
まさに今、この幸せに頼りきって少しでも意識が溺れていたのだとしたら、彼が『それ』に気づかなかったのは無理もなかった。
「ソースケ…」
半ば呆けたような彼女の声音に起こされて、宗介はようやく我に返る。
だが、それではもう遅かった。
「ソースケ、あの子なんであんなとこにいるの?」
眩いランプと黒い影が彼の視界を覆い隠す直前、かろうじて目に入ったのは地面に一瞬照らされた鮮明な白。
あれは確かに、 猫 だった。
何かを叫んだ彼女の声も、すぐ傍の凄まじい排気音ですぐにかき消された。
「――――!!!」
半分前のめりになった彼女の腕を、ぎりぎりのところで掴み寄せる。轟音はまだ止まらない。
「離して!何するのよ!!」
「だめだ。やめろ」
「離しなさい!!」
「だめだ」
「離してって言ってるのが聞こえないの!?」
「死ぬ気か?馬鹿を言うな!!」
少し経って、道路全体に静寂と暗闇が戻ってくる。もう、人ひとり見当たらなかった。
乱暴に彼の胸を突き放し、彼女はその場所へと駆けて行く。
血で黒くぬめったアスファルトに力なく両膝を落とす彼女。その背中を、宗介はぼんやりと見つめた。
(どこかで見たような光景だな…)
いつだったか。それは何だったか。意外にも答えはすぐに出た。
昔の自分だ。
身近な誰かを亡くした、彼女の姿が悲しいくらいに重なって見える。
あのころはまだ泣くということを知っていたかもしれない。だが、戦うことを、殺すことを、自分は知っていただろうか?
今更になって鮮明に甦ってきた自分の記憶がとてつもなく疎ましい。
そのときは現実を受け入れることもしなかった。納得もしなかった。どうにもならないのに、どうにかしようと必死で考えた。
なんて物分りの悪い、手前勝手な自分だっただろう。
……そこまで考えて、この自分の思想にひどく違和感を感じた。
しかし、今、目の前にいる彼女は。
物分かりが悪く、手前勝手で――
この上なく、純粋だった。
そうだ、今の自分よりもずっと。
「どうして止めたのよ…!?」
かなめは、背後にしゃがんだ彼の胸倉をぐいっと掴んだ。
「わからないとでも?」
「わかるわけないでしょう?あたしが行ったら助かったかもしれないじゃない!」
「それはありえない」
「どうしてそんなことが言えるの?」
これだ。――現実を受け入れない。納得もしない。昔の自分にそっくりだ。
おそらく彼女の心情とは裏腹の、見当違いなことばかり頭に浮かんでくる。
それでも口をついて出たのは紛れも無い真実。
「そいつは、もともと病気だったのだ」
言うと、彼女の顔はびくりと強張った。
「なんですって…?」
「よくある伝染病だ。生まれて間もない頃は、兄弟にも伝染る可能性もあるから――
この白猫だけ捨てられた。多分、そうだろう」
「……知ってて黙ってたの?」
「最初はまさかと思った。だが、こんなところに蹲っていたのはそうとしか考えられない」
ああ、いやな予感が当たってしまったな…と、彼は思った。
何故あの時、異常なまでに潤んだその目と熱い体温に気付かなかったのだろう。
せめてあの週末の夜に、探し当ててさえいれば。まだ……間に合うかもしれなかった。
「…だが、間に合わなかった」
「……」
「千鳥――」
「あんたっていつもそう。簡単に決め付けないで!」
彼女の言動が信じられなかった。何故ここまであきらめが悪いのか。
「動物病院に行くのよ。何か出来るかもしれない」
「…千鳥」
「まだわからないじゃない!!どうしてそんなに冷たいの?」
「医者も同じだ。せいぜい注射一本くらいだろう」
そう、楽に死なせるためだ。これ以上苦しませないために。悲しませないために。
そういう光景を、彼は何度も見てきた。
「無理に生き長らえさせてもだめなんだ」
「意味わかって言ってるの……?」
「……」
「あんたはこの子を殺せ、って言ってるのよ」
「苦痛を引き伸ばして、何の得がある?」
「……!!」
かなめは掴んだ両手に力をこめた。相手は地面に尻餅をつく。感情に抑えがきかない。
「あんたは…殺すことしか考えられないの?それしか能がないの!?」
この皮肉が、まさに彼の真実だなんて考えもしなかった。
「…千鳥」
宗介は、首元に伸ばされたかなめの手首に右手を添えて、
「俺には、それしかない」
この言葉が、どんなに重く響いたことか。
冷たく空虚な瞳が、彼女をぼんやりと見上げていた。
少し経って。
ぱん、と乾いた音が道に響いた。
「……どうしてそんなこと言うのよ……?」
俯き加減のまま、宗介は小さく『すまない』とだけ答えた。
搾り出すような彼女の声は小さく震え、既に上ずっていたから。
それ以上は何も言わず、彼女はゆっくり立ち上がると赤い肉塊を拾い上げて歩き出した。
「どこへ行く」
「動物病院よ。絶対あきらめないわ」
「……そうか」
無駄だ。諦めろ。手遅れなんだ。
――とは、言わなかった。今の彼女の表情を見て、とても言えなかった。
足音はすぐに遠ざかった。
「……」
少し咳き込んでから、のろのろと立ち上がり、服についた汚れを払う。さっき彼女に触れた手は、赤い血がこびりついていた。
宗介は一度大きく息を吸い込み、目を瞑って空を仰いだ。勿論、夜空の星々など見えやしなかった。・・・・・・胸がひどく息苦しい。
さっきうたれた左頬は、赤くなることさえないだろう。
あんなにも弱々しい彼女の攻撃は初めてだった。なのに、こんなに痛く感じるのも初めてだ。
気が付いたらマンションの前、彼女の家のすぐ近く。
寒々しい街灯の光が辺りを照らしていた。背中を預けて、ずるずるとしゃがみこむ。
彼女が来るまでこうしていよう、と思った。
彼女に会って何を言うか。自分は間違っていたか、正しかったか。そんなことはどうでもいい。
今の自分に何が出来るかなんて想像もつかない。待ったところで、結局何も変わらないのかもしれない。
それでも、ここから動く気にはなれなかった。
雪が降り始めた。
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