つかの間のハピネス




 帰りの通学路。

 夕暮れの中、宗介とかなめはいつも通り、一緒に歩いていた。

 宗介はかなめの半歩後ろにいて、襲撃にいつでも備えられる格好だ。

 二人は話をしながら歩いている。

 かなめが話題を振って、宗介が相槌を打ち、多少コメントを付け加える程度のたわいない会話。

 おおよそ、いつも通りの情景だった。

「んでね〜、お蓮さんが先輩ののろけ話ばっかするから言ってやったのよ」

「ほう、なんと?」

「そんなに好きなら、さっさと告白しちゃいなさいよ。先輩もうすぐ卒業なんだから、ってね。」

「なるほど」

「そしたらお蓮さん、なんて言ったと思う?」

「わからん」

「先輩の笑顔が見られるだけで、私は幸せなんです……、だってさ」

「ふむ。彼女がそれでいいといっているのだから、いいのではないか?」

「バカね。このままじゃお蓮さん、絶対後悔するんだから。何とかしてあげないと……」

などという話をしていた。

「あっ、そうだ」

「なんだ?」

「あんた知ってる?今日この辺、水道管工事するんだって」

「そうか。ならば、風呂は使えないな」

「じょーだん。そんなの嫌だっつーの」

「しかし、どうにもならん」

「そこでよ。夜、銭湯行かない?」

「セントウ?なんだそれは」

 案の定、彼は知らなかったようだ。

「まあ、日本の風物詩みたいなもんね。ちょっとした温泉みたいなもんと思っていいわよ。んで、どうする?」

「断る理由はない」

「おっけ。じゃー、7時ごろうちに来て。ご飯食べたら行きましょ」

「了解」







 午後8時半。

 夕食を終えた二人は、銭湯に来ていた。

 なかなか古風な作りである。

「これが銭湯か」

「あたしも行くのは初めてなのよ」

「そうか」

「んじゃ、入ろ」

 そうしてガラガラと戸を開けた。

「いらっしゃい」

 待合室には、人の良さそうな老婦人が台の上に座っていた。

「こんばんは」

「……(ぺこり)」

 それぞれ挨拶をする。

「お嬢ちゃんはこっち、そっちのお兄さんはこっちね。一人300円」

 言われた通り二人は300円を支払い、かなめは左の女湯、宗介は右の男湯に入った。







 中に入ると、人は全くいなかった。

 これだけ大きいのに、珍しいこともあるものだ、と思いつつ、宗介は湯船に浸かった。

 入れないなら、別に風呂など入らなくてもよかった、と宗介は思う。

 作戦中、風呂には入れないことはしょっちゅうだし、慣れている。

 それに宗介自身、あまり風呂は好きではなかった。

 なぜなら−−−







 がらがらっ。

 入り口から老人と子供が入ってきた。

 子供のほうは7歳くらい、老人のほうは70歳ほどだろうか。

「うわ〜!おっきいね!!」

「こらこら、騒ぐんじゃない」

「いいじゃん!誰もいないみたいだし……あれ?誰かいる」

 二人が宗介のほうを向く。

「おや、どうもすいませんねぇ。うるさかったでしょう」

「いえ」

 宗介は適当に返答した。

「ま〜いいや!お風呂、お風呂!」

 そう言って少年は湯船に飛び込もうとした。

「こらっ!身体を洗ってからにしなさい!」

「は〜い」

 少年はさっさと身体を洗うと、勢いよく湯舟に飛びこんだ。

 その瞬間、老人がまた少年をたしなめる。

 宗介はそんな光景をぼんやりと眺めていた。

 すると少年が、ばしゃばしゃと宗介に近づいてきた。

 宗介は不思議そうな顔をする。

「ねぇねぇ、おにいちゃん」

「なんだ」

 そっけない答え。

 しかし、少年は意に介した様子も無く、無邪気に話し掛けた。

「あのさ、向こう側使う?」

 浴槽の奥のほうを指す。

「いや、特に使おうとは思わんが」

「じゃあさ、ぼくあっち使っていいかな。泳ぎたいんだ!」

「かまわんぞ」

「ほんと!?」

「ああ」

 すると少年は、ぱあっとうれしそうな笑顔を浮かべた。

「ありがと!おにいちゃん!」

 そして、ばしゃばしゃと向こう側へ泳いでいった。

「お隣、よろしいですかな?」

 今度は、老人のほうが話し掛けてきた。

「どうぞ」

「では、失礼」

 そう言って、老人は宗介の隣に座った。

「先程は、孫がご迷惑をおかけしまして」

「いえ、お気になさらず」

「それはよかった」

 老人は深みのある笑顔を浮かべた。

「私の初孫でしてね。名を俊太といいます。見ての通り、やんちゃ坊主でしてね」

「はあ」

「しかし、またそこがかわいいと思ってしまうんですよ」

「そうですか」

 宗介は適当に相槌を打った。

 向こうで俊太の泳ぐ音がする。

「風呂は嫌いですかな?」

 嫌そうな顔をしていただろうか、と不思議に思いながら宗介は答えた。

「はい」

「私も、若いときはそうでしたよ」

「そうですか」

 前を向いたまま、二人は会話を続ける。

「なぜ嫌いか、当ててあげましょうか」

「はあ」

 老人は、笑みを浮かべた。

「あなたは常に気を張っている。どんなことにも瞬時に対応できるように。しかし、風呂に入ると垢と一緒にその緊張感も無くなってしまうようで、風呂が嫌い、だと」

 宗介は驚きの表情で老人を見つめた。

 老人は笑顔のままだ。

「私にもありましたよ。そう、あれは太平洋戦争のころ。私は一兵士として軍に従事していました。あの頃はずっと気を張っていました……今のあなたのように」

 宗介は黙って話を聞いている。

「あの頃は、それで何も苦痛を感じなかった。当たり前のことだと。つい最近まで、私は同じようなことをしていました。習慣と言うものはなかなか抜けなくてね」

 老人は苦笑する。

「しかし、最近考えが変わりましてね」

 そう言って、老人は俊太のいるほうを見た。

「あの子が生まれてから、気持ちに余裕を持てるようになりました。あの子の笑顔のおかげで」

 そして、穏やかな笑みを浮かべてこう言った。

「すると、肩の力が抜けて自然体になれるんです。自然体になると、視野が広がる。視野が広がると、色々と素晴らしいものが見えてくる。すると、なぜか風呂が好きになっていたんですよ」

 宗介は俊太を見た。

 無邪気な笑顔。自分にも、なんとなくわかるような気がする。

「お兄さん、肩の力を抜きなさい」

 静かに老人が言った。

「ご忠告ありがとうございます。しかし……」

「あなたにどんな事情があるのか知らない。最近の若い子であなたのような雰囲気の人間はいないからね。でも、一つ忠告させてくれ」

「はい」

「……糸は、張りすぎると逆にもろくなる。少しでも切り込みが入ったら駄目だ。しかし、若干緩んだ糸ならばその心配は無いだろう?」

「ですが……」

「まあ、今すぐ分かれとは言わんよ。わしだって、つい最近分かったんだから。ただ……」

「ただ?」

「あの子の笑顔が見れれば、私は幸せだな、と思えるんだ」 

 そう言うと、老人は宗介のほうを見た。

「あなたにも、きっと来ますよ。そう思える日が」

「はあ」

 すると俊太が湯船から出た。

「おじいちゃ〜ん!かえろ〜!」

 老人も立ち上がる。

「ではこれで」

「貴重なお話、ありがとうございました」

 宗介は頭を下げる。

「いやいや、とんでもないよ」

「いえ、勉強になりました」

「そうかね。ふむ、ならばもう一つ、アドバイスだ」

「?」 

「このことは、君がそれほど気を張らせる相手が教えてくれるよ」

「それは、どういう……」

「君はどうして、そんなに気を張っているのかな?」

 そう言うと、老人は笑みを浮かべて、俊太と風呂場から出ていった。

 そうして、風呂場にはまた宗介一人になった。

 不思議なことに、今風呂のことがそんなに嫌いじゃなくなっていた。

「もう少し、浸かっているか……」

 そう言うと、宗介は深く息を吐いた。







 風呂から上がって待合室に行くと、二人はもういなかった。代わりに、かなめがコーヒー牛乳を片手にバラエティー番組を見ていた。

「あら、長かったのね」

「ああ」

 そして、宗介も椅子に座る。

「千鳥。何を飲んでいるんだ?」

「ああ、コレ?コーヒー牛乳。あっちで売ってるよー」

「そうか」

「そう。なんかさー、風呂上りの一杯って格別じゃない?」

「そうなのか?」

「そうなのよ。ああ、私はなんて幸せなのかしら……」

 そう言って残りのコーヒー牛乳を飲み干した。

 ある言葉に反応し、宗介も試しに買ってみたが、別に特別なものには感じられなかった。







 帰り道。

 宗介は考え込んでいた。

(あの老人の言葉は一体……)

 何度も考えをめぐらす。しかし、はっきりとした解答が得られない。

(わからん。千鳥を守ることが幸せにつながる……?しかし……)

「ねえ、ソースケ」

 かなめから話し掛けられ、宗介は思考を中断する。

「銭湯どうだった?」

「ああ、そうだな……」

 そして、こう答えた。

「なかなか良かったな」

 そう、不思議と悪くなかった。

 すると、かなめが満面の笑みを浮かべた。

「ほんと!?よかった!」





 宗介は目を見開いた。

(……ああ、そうか)

 その笑顔を見て、宗介はやっと理解した。

 それは、まさに彼女を守りたい理由。





 命令だから?

 それは違う。

 彼女が好きだから?

 確かにそれもある。しかし、そういうことではないんだ。

 俺はただ。

 ただ−−−





 彼女の笑顔を見ていたい。

 彼女の笑顔は、自分に何かをくれる。

 そう。それはとても暖かいもの。

 自分には今まで触れることがなかったもの。

 その暖かさは、自分を心地よい気分にさせてくれる。

 その暖かさは、自分を変えてくれる気がする。

 彼女の笑顔を曇らせるものは、何であろうと許せない。

 彼女の泣き顔は見たくない。

 彼女の笑顔がなければ、きっと自分は壊れてしまう。

 だから。  





 俺は彼女を守りたい。

 その笑顔を守りたい。

 ずっとその笑顔を見ていたい。

 俺を暖かくしてほしいんだ。

 そして、出来ることなら。





 出来ることなら、君の隣で。





 帰り道で話した蓮のことを思い出す。





『先輩の笑顔が見られるだけで、私は幸せなんです……、だってさ』





 そして、風呂での老人の話も。





『あの子の笑顔が見れれば、私は幸せだな、と思えるんだ』





 そうか。これが。

 この、暖かさが。

 彼女の笑顔がくれる、この暖かさが。





 『幸せ』というものなのか。





「……どーしたのよ。急に黙り込んじゃって」

 意識を今に戻すと、そこには怪訝そうな顔をしたかなめの姿があった。

 少し驚いたが、宗介は無表情で、しかし、どこか満ち足りた顔でこう言った。

「いや、問題ない。今ちょうど、自分自身の深遠な命題についての解答が得られたところだ。君には感謝する」





「……!?」

 その言葉を聞いて、かなめの顔は見る見るうちに真っ赤に染まった。

 それを見て、今度は宗介が怪訝そうな表情になる。

「どうした千鳥。顔が赤いぞ」

「う、うるさいわね!あ、あんたが突然、そ、そんな顔するからでしょ!」

「そんな顔、とは?」

「う、うるさいっ!!」

 そう言うと、かなめはずんずんと先へ歩いていってしまった。

 宗介も慌てて後を追う。





 宗介は自分でも気付いていなかった。

 自分の顔がやさしい笑顔であったことなど。





 追いついた宗介は、かなめの隣に並ぶ。

 そして、しばらく二人は無言で歩いた。





 彼女の手を見てみる。





 華奢な、小さな手。

 守らなくてはならない、と思う。

 しかし、逆に自分が守られていることにも気付いている。

 いや、自分を導いてくれると言ったほうが正しいか。





 自分が困ったとき。 

 自分が迷ったとき。

 自分がつらくなったとき。

 自分が絶望したとき。





 彼女は、いつもその手で自分を引っ張ってくれる。

 時には、厳しく。時には、優しく。





 ならば、今度は。

 今度は、俺が−−−





「千鳥」

「ん?」

 彼女がこちらを向く。

 宗介の時が止まる。

「……?なによ?」

 かなめが訝しげな顔をする。

 宗介は言おうとした言葉を飲み込んで、再び前を向いた。

「いや、何でもない」

「は?」





 宗介は心の中で苦笑した。

 先程言おうとした言葉を思い出す。





   『手を、つなごう』





 自分は臆病者だ。

 彼女と手をつなぎたい自分がいる。

 彼女の隣にいたい自分がいる。

 彼女を自分のものにしたい自分がいる。





 だが、逆にこの距離感が心地よいと思う自分がいる。

 触れられそうで、触れられない距離。

 隣に見えて、実は半歩後ろに下がっている距離。





 用は、今の関係が壊したくないのだ。

 壊れるのが、怖い。

 もし、壊れてしまったら。

 壊れてしまったら……。





 そこで宗介の思考は再び中断された。

 かなめが真正面から宗介の顔を覗きこんでいた。

「な、なんだ」

 色々と考え込んでいたので、かなり驚いた。が、そんなことは意に返さず、かなめはむっとした表情をする。

「なんだ、じゃないわよ。あんたねぇ、自分から話振って、途中で止めるなんて許されると思う?」

「な、なに……?」

 すると、かなめはいたずらっ子のような笑顔を浮かべた。

「むふふ……。洗いざらい白状してもらうわよん」

 両手をわきわき、とさせながら言った。

 エマージェンシー、エマージェンシー。

 宗介の本能は、危険をすばやく察知した。

 慌ててダッシュする。

「断固、拒否する!」

 絶対に、言うわけにはいかない!

「あ、こら!まて〜!!」

 かなめが後を追いかける。どこからかハリセンも持ち出していた。





 走りながら宗介は、先程に自分の問い掛けに答えが出ているのがわかった。

 いや、それは始めからわかっていたことだった。





 もし、壊れたら?





 何も変わらない。





 関係が壊れても、俺の気持ちがなくなるわけじゃない。

 見返りは望まない、と言ったら嘘にはなるが、なくてもかまわない。

 たとえ、今の関係が壊れても。

 たとえ、彼女が自分以外の人間を好きになっても。

 たとえ、彼女が自分を嫌いになっても。

 たとえ、彼女が自分を必要じゃなくなっても。





 ただ、彼女の笑顔が消えなければ。

 彼女が笑顔でいてくれるならば−−−





 俺は、幸せだ。





 追いかけられながら、宗介の顔には再び暖かい笑顔が浮かんでいた。

 1月半ば、いつも通りに寒い日の一幕だった。










……fin











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